鉛筆と削りくずとその周辺

荒けずりから、徐々に、尖らせて行く

えんぴつを削り続ける。

以前働いていた職場で先輩に言われた一言が、忘れられない。

 

内装デザインの仕事を始めて2年目のこと。

とあるメーカーさんの新築オフィスのレイアウトを担当していた。打ち合せも何度か進んで、レイアウトはほぼ固まりつつあった。

しかし、打ち合せを進めるうちに、休憩スペースのある部分が、提案当初より少し空間に空きができた。それは、元々ベンチを置いていたのだが、お客さんの都合で家具を削った結果、2m位の空きが生まれたところだった。しかし、元々通路となる場所であったので、動線の確保から言うとその空間が空いていても、問題はない。お客さんもその空き部分については納得していた。

 

やれやれ、と思ってその打ち合せを引き上げてきた後、先輩に報告をすると、先輩はきつい口調で言った。

「なぜその空きについてもっと考えなかったの?何かアイデアを出さなかったの?」

いや、お客さんもそれはそれでちゃんと納得している。動線の確保から言っても空いていても問題ない。と私は答えた。

 

しかし、先輩はそこで言った。

 「お客さんはいいって言うかもしれない。

でも、君が誰よりもその場所について真剣に考え無ければ、誰も真剣に考えないよ?

君がそこで諦めれば、それで終わりなんだよ?

本当に真剣に考えたの?」

 

私はその当時は、正直な所、無茶言うなぁ、と思った。理屈は分かるけれども、そのほんの小さなスペースに時間をかける余裕もなかったし、何よりお客さんとの合意の上で決まった話なのだ。

でも結局先輩の意地でアイデアを次の打ち合せには持って行けと言われたので、家具の数量は変えずに、少しレイアウトを変えて次の打ち合せに臨んだ。

お客さんに見せた結果はあっさり前回のままでいいですよ、との事だった。

そりゃそうだ。

 

***

でも、この先輩の言葉は徐々に、自分の心の中に染み込んでいった。

 

自分が諦めたら、そこで全部終わり。という事。

 

それはデザインに対しての意識だけでなく、自分の人生への意識にも同じ事が言えるのではないか。

自分の才能、可能性、全て。

 

正直な所、自分の今までの生き方にはほとんど納得していないし、才能もないし、これからの可能性だって危うい。なんせこんな稚拙な文章しかかけないのだ。

しかし、でも、自分が自分を諦めてしまったら、だれが自分に可能性を見いだすんだろう。誰も、見いださない。

自分は自分が嫌いでも、見捨てたくなっても、それでも自分は自分にとっての、最後のたった一人の自分のサポーターでなければいけないのだ。

泣いている自分を怒っている自分を励ます存在でいなければいけない。

だから、私は自分がどんなにめげたとしても、自分を励まし、日々自分の可能性を探り更新し続けなければ行けない。

 

*** 

そんな事を考えていた時に、たまたま久しぶりにカッターで鉛筆を削ることがあってふと、鉛筆って人生に似ているなと思った。

 

最削られていないまっさらな鉛筆は、綺麗だが、削らないと文字もかけない。

カッターで何度か削って少し芯が見えてくる。

芯を尖らせて、文字を書き始める。

文字を書いていると、徐々に丸くなってくる。削る。

また文字を書き始めるが、削りすぎて先がすぐ折れる。

また削る。今度はすぐに丸くなる。

また削る。書く。

削る。書く。

この作業を繰り返すうちに削り方が分かってきて徐所に少ない削り回数で、いい具合の尖りが出せるようになる。

しかし、この削る作業は同時に鉛筆の寿命をどんどんと縮めてもいるのだ。

切ないけれど、削り続ける宿命。

でも、削るからこそ、自分の書くという役目を全うできる。

 

人間の人生も、たくさんの可能性がある中を、自分の役割や才能を考えながら選択し徐々に尖らせていく物だと思う。

選択する事は自分の可能性を捨てて行くことだけれども、だからこそ、自分の人生をより美しく尖らせていくことができる。

 

そんな想いで日々、自分の感性と、可能性を削って、尖らせていく。