エリアリノベーションとその先
本当はこれが書きたかった、今日の話。
馬場さんのエリアリノベーションのトークショーに行ったので、その周辺の話。
今日の話は、新著エリアリノベーションの刊行記念として、エリアリノベーションの今までの事例とキーマンへのインタビューを通して、エリアリノベーションの基本骨格は何かというのを探って行く。
4つのキーマンの話、リノベーションの例、今後注目していくべき地方メディアの可能性などなど、今まで私も漠然と考えていた事がパズルのピースを埋めるようにつながり、また俯瞰して考えることができて、とてもよい機会だった。
今日のお話を聞いて考えて自分として興味をもち、考えた所がいくつかあったので、簡単にだがまとめてみようと思う。
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■いわゆる町と都市の役割(というか特徴)が変わってきている。
都市は今までは流行の最先端、という事で色々なものが始まる(発祥)場所だった。
何か新しい事をするにしてもそれをムーブメントにするには人数が必要であるし、新しさを受け入れるには、ある程度「新しいもの慣れ」している場所や行政が必要だったのだと思う。(例えば渋谷)
しかし、今、新しい考えや取り組みは寧ろもっと小さな町や村で起こっている。
それは、新しい事を始めるために、人数や場所というよりも、とにかく早くプロジェクトをおこす(リーンスタートアップできる)という事が重要になってきたからだと思う。
まずプロジェクトをおこし、それを事実としてネットにアップすれば、興味のある人達がわっと集まってくる。
つまり、 人を集めてプロジェクトをおこすのではなく、プロジェクトをおこして人を集めるというプロセスの逆転がおこったのだ。これはやはりITの力が大きいと思う。どの場所にいても60億人と会話ができる状況なのだから、人を集める方法はいくらでもある。寧ろ何で人を集めるかが重要になる。
そいうえば、以前あるクラウドファウンディングの代表の方に、どうしたらクラウドファンディングが成功するのか?と聞いたことがある。
その方曰く、「一部の熱狂的な小さな集まりをつくる」という事が重要だそうだ。何かに向かって熱狂的に楽しんでいる人を見ると誰だって「何だろう?」と少し立ち止まりたくなる。(祭りで御神輿を担ぎながらわっしょいわっしょい言っている集まりを想像して欲しい。)
地方で小さな単位で新しい事が始まって行く。
では都市ではどうなるか、というと、恐らく地方でできた新しいものをより磨く作業が中心になってくるのではないかと思う。
地方発のアイデアやブランドをブラッシュアップして、よりある意味誰でも受け入れられるようなまた収益化できるような事業にする。
もしくは、都市自体がマスメディアとしての役割を果たし、都市で流行ることによってそのブランドが確立されたものになる。
■エリアリノベーションのその先
エリアリノベーションのその先の展開として、馬場さんもちらっと仰っていたが、イタリアにヒントがあると思う。
前に大前さんの記事を読んだが、納得するところがおおいにあった。
イタリアの企業はほとんどが家族経営の小さなものだ。しかし年商は日本の中小企業並みの企業があるとのことだった。
それは、イタリアの経済が、国(イタリア)としての成長というより、それぞれの街(エリア)が独立して成長して行くスタイルをとっているからである。
分かりやすく言うと「イタリアの生ハム」ではなく、「パルマの生ハム」とか「シチリアのレモン」とか(この辺うろ覚え…)地方名で有名になっていくということだ。しかもそれは、自国内ではなく、全世界的に、「パルマの生ハム」として有名なのだ。
つまり、日本のこの先の成長の仕方としては地方がそれぞれ世界にうって出ていくことが必要なのではということだ。
現在の最新のエリアリノベーション事情は改めて本を読ませて頂くとして、
このエリアリノベーションの先には何が待っているのだろうと少し想いを馳せながら話をお聞きしていた。
えんぴつを削り続ける。
以前働いていた職場で先輩に言われた一言が、忘れられない。
内装デザインの仕事を始めて2年目のこと。
とあるメーカーさんの新築オフィスのレイアウトを担当していた。打ち合せも何度か進んで、レイアウトはほぼ固まりつつあった。
しかし、打ち合せを進めるうちに、休憩スペースのある部分が、提案当初より少し空間に空きができた。それは、元々ベンチを置いていたのだが、お客さんの都合で家具を削った結果、2m位の空きが生まれたところだった。しかし、元々通路となる場所であったので、動線の確保から言うとその空間が空いていても、問題はない。お客さんもその空き部分については納得していた。
やれやれ、と思ってその打ち合せを引き上げてきた後、先輩に報告をすると、先輩はきつい口調で言った。
「なぜその空きについてもっと考えなかったの?何かアイデアを出さなかったの?」
いや、お客さんもそれはそれでちゃんと納得している。動線の確保から言っても空いていても問題ない。と私は答えた。
しかし、先輩はそこで言った。
「お客さんはいいって言うかもしれない。
でも、君が誰よりもその場所について真剣に考え無ければ、誰も真剣に考えないよ?
君がそこで諦めれば、それで終わりなんだよ?
本当に真剣に考えたの?」
私はその当時は、正直な所、無茶言うなぁ、と思った。理屈は分かるけれども、そのほんの小さなスペースに時間をかける余裕もなかったし、何よりお客さんとの合意の上で決まった話なのだ。
でも結局先輩の意地でアイデアを次の打ち合せには持って行けと言われたので、家具の数量は変えずに、少しレイアウトを変えて次の打ち合せに臨んだ。
お客さんに見せた結果はあっさり前回のままでいいですよ、との事だった。
そりゃそうだ。
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でも、この先輩の言葉は徐々に、自分の心の中に染み込んでいった。
自分が諦めたら、そこで全部終わり。という事。
それはデザインに対しての意識だけでなく、自分の人生への意識にも同じ事が言えるのではないか。
自分の才能、可能性、全て。
正直な所、自分の今までの生き方にはほとんど納得していないし、才能もないし、これからの可能性だって危うい。なんせこんな稚拙な文章しかかけないのだ。
しかし、でも、自分が自分を諦めてしまったら、だれが自分に可能性を見いだすんだろう。誰も、見いださない。
自分は自分が嫌いでも、見捨てたくなっても、それでも自分は自分にとっての、最後のたった一人の自分のサポーターでなければいけないのだ。
泣いている自分を怒っている自分を励ます存在でいなければいけない。
だから、私は自分がどんなにめげたとしても、自分を励まし、日々自分の可能性を探り更新し続けなければ行けない。
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そんな事を考えていた時に、たまたま久しぶりにカッターで鉛筆を削ることがあってふと、鉛筆って人生に似ているなと思った。
最削られていないまっさらな鉛筆は、綺麗だが、削らないと文字もかけない。
カッターで何度か削って少し芯が見えてくる。
芯を尖らせて、文字を書き始める。
文字を書いていると、徐々に丸くなってくる。削る。
また文字を書き始めるが、削りすぎて先がすぐ折れる。
また削る。今度はすぐに丸くなる。
また削る。書く。
削る。書く。
この作業を繰り返すうちに削り方が分かってきて徐所に少ない削り回数で、いい具合の尖りが出せるようになる。
しかし、この削る作業は同時に鉛筆の寿命をどんどんと縮めてもいるのだ。
切ないけれど、削り続ける宿命。
でも、削るからこそ、自分の書くという役目を全うできる。
人間の人生も、たくさんの可能性がある中を、自分の役割や才能を考えながら選択し徐々に尖らせていく物だと思う。
選択する事は自分の可能性を捨てて行くことだけれども、だからこそ、自分の人生をより美しく尖らせていくことができる。
そんな想いで日々、自分の感性と、可能性を削って、尖らせていく。